「しつけ」とは
人は常に「しつけ」を受け取っている状態なんですが、皆さんは気がついていますでしょうか。
しつけというのは、親が子に行うことだけではないと捉えています。
しつけの意味は、
礼儀・作法を教え込むこと。
つまり、常に「人のふり見て我がふりを直している」私たちは、「しつけ」を受け取っていることになります。
※ここで言う「人のふりの『人』」というのは、「他人」とも「我」とも置き換えることができるのを忘れないでください。
過去の自分と今の自分を比較して正すことも、自分自身への「しつけ」です。
しつけ自体に害はない
他人からの「しつけ」、自分自身(我)からの「しつけ」のどちらの場合であっても、しつけはその時々に合った礼儀・作法を享受して、より良いものに変化させていくことです。
そのため、しつけの意味合いに、害というものは生まれていないのです。
今のあなたが過去を振り返ったときに過去に享受したしつけが、今のあなたにとって不要なものだとしても、当時しつけを行った方たちは当時の最善のしつけを行っただけですから、その方たちを良くない方たちとする必要はありません。
ただし、しつけと称する体罰には考えるところがあります。
「体罰」とは
体罰とは読んで字のごとく、
体に苦痛を与える罰
という意味であり、肉体へ向けた暴力を指します。
そして、その体罰という暴力行為は色々な場で行われています。
家族や恋人との間のDVや虐待、会社での上司が部下に対するパワハラも暴力行為と言えます。
しつけと称する体罰
しつけの手段「体罰」は、結果的にはしつけになります。
暴力に掌握は見た目には結果が出てしまうために、しつけと称する体罰を手放すことができない方が後を絶ちません。
問題は、体罰をしつけの手段としてしまうことなのです。
近くにいる、その人にとって影響力のある人が体罰を実践しているのを目の当たりにしたり、自分自身がその体罰の対象となっている場合に、体罰をしつけと認識し始めます。
そして、その体罰を身近に感じ続けることによって、「この手段が手っ取り早い」とか「最も有効だ」とか「それしか方法がない」などと思うようになっていきます。
これが暴力の中で育った子どもたちが、成長して親になっても暴力を手放すことが出来なくなってしまうメカニズムです。
体罰を手放すには
どんな場合であっても、体罰を行っている方には今すぐに手放して欲しいと願うばかりですが、体罰しか、しつけの方法を知らないという状況下にいる方たちは、体罰を手放すことができないのも事実です。
では、手放すにはどうしたら良いのでしょうか?
それには、体罰以外のしつけが可能であると認識してもらうことが大切です。
ただ、認識を変えることには時間を要する場合が多いのも事実です。子どもの頃から「体罰はしつけの手段」と認識してしまっていたら、その固定観念は揺るぎない自分の基礎になってしまっている場合があるからです。
橋脚の耐震補強工事をイメージしてください。元々ある橋脚はそのまま残して、その基礎部分を補強する方式を取る補強工事です。
体罰を基礎部分に持っている人に、このような方法で認識を変えてもらおうとしても、なかなか変わるものではありません。
もし、ご自分の中に「体罰をしつけの手段」があることを認識し、それ以外の方法を知りたいと思うのであれば、これからお知らせする私の案を受け入れてみてください。
話して伝えるしつけ
しつけを行う立場にある方は、
- 自分が今どんな気分なのか?
- あなたがどうあって欲しいのか?
と言葉でご自身の中にある「想い」を丁寧に伝えていきます。
ときには、自分自身でもその想い描く姿をしつける相手に示す必要もあります。
例えば、「挨拶のできる人」になって欲しいと想うのであるなら、挨拶の大切さ、挨拶を行うことで得られる感覚を伝えながら、しつける本人がその大切さや感覚を自ら行動して示す必要があるのです。
これらは、簡単にできるものではないかもしれません。
しかし、一人が体罰を止めることで、その周りの人が受ける痛みは減り、体罰をしつけと認識して伝えていく人も減ります。