「足る」を知るための不足
アセンデッドマスター・空海からのメッセージ
足るを知ることに執着する必要はありません。
執着は「足る」の本質を曇らせるからです。
生きていれば腹が減り、
生きていれば躓くこともあり、
生きていれば失うこともあるのです。
これらを「足る」と言うならば、人を捨てた考え方を持たねばなりません。
人は誰でも不足を知っているのです。
そこに目を向けなければ人でなし。
足るを知る人は、不足の体験を通してそれを知ります。
生まれたての赤子が足るを知っていたならば泣くことはないでしょう。
生まれて初めて知ることは「不足」であるということです。
昨日のことを振り返ってみれば、
己がどれだけ不足を感じ、
その上で己が足るを知ったか分るでしょう。
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さて、もう一つの足るを知るがあります。
それは仏の教えの「不貪」というもので、木に実っていた果実がどんなにたくさんあっても今の己の腹が満たされるまで食し、それ以上は取らないということです。
もちろん、「不貪」においても執着は不要で、時と場合においては「備え」として余分に取ることも許されます。
大事なのは己の行動に「貪る行為」が含まれていないかを見ること。
必要以上に目立つこと、
必要以上に介入すること、
必要以上に仕事をすることがないかを見るのです。
黙り続けることは「不足」となり、
喋り続けることは「不貪」となるのです。
この2つの中心にあるものが「足る」であり、すなわち真ん中(中庸)の教えです。